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廃れた商店街が待っていてくれた-北池袋から池袋まで②

2012年 12月31日 06:57 (月)

      池く

      池け

      池こ
      池さ

     池し

     池す
   
      池せ
  一大繁華街でありながら、池袋は渋谷や新宿に比べ訪れる機会が圧倒的に少ない。距離的な面もあるのだろうが、興味をおぼえるような要素がほとんどなかったためだろう。わざわざ足を伸ばさなくても、たいていは渋谷、新宿で間に合ってしまう。
  
  北池袋からの歩行では六ツ又陸橋でガラッと街の様相が変わる。寂れた街の顔つきが一挙に大都会のケバケバしい顔に変貌する。道行く人の数が圧倒的に違うのだ。久しぶりだったので、気が向くままに歩く。するとこれまでに感じたことのない池袋の匂いが鼻先をかすめる。探訪の回数を増やし、もう少し池袋を彷徨ってみよう。 
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廃れた商店街が待っていてくれた-北池袋から池袋まで

2012年 12月30日 06:49 (日)

      池あ

      池い

      池え

      池お

      池か

      池き
  大山の徘徊が比較的早く終わり時間に余裕があったので、池袋の一つ手前の北池袋で東上線を降り、ここから池袋に向かうことにした。何となく寂れた感じの駅で、道路は狭く、人通りも少ない活気に欠けた街並みが続く。「ふれあいロード北池」という商店街の表示があるものの、寂寥感はぬぐい切れない。
  
  東上線から離れるように歩き、「池袋本町中央通り商店街」に行き着く。おそらく昔はかなり栄えたに違いない雰囲気を残した通りだが、「今はちょっと」と感じてしまう。その廃れ感がたまらなく愛おしい。いまだにタワシを売る小間物屋風の店や、渋さいっぱいのモルタル家屋がまるで「オイデオイデ」をするように待っていてくれた。
  
  そうこうするうち、池袋六ツ又交差点が見えてきた。手前でJRの陸橋を渡るが、正面に大塚方面が見渡せる。複雑に曲がりくねった陸橋を上り下りしながら池袋を目指す。
(続く)

年末の賑わいを探しに大山へ

2012年 12月29日 07:16 (土)

      大あ

      大い

      大う

      大え

      大お
  年末の買い物客の賑わいを見たくて東上線大山駅に降り立った。駅前から「ハッピーロード大山」なるアーケードが続く。お昼前のためか人通りは思ったほど多くない。大山と言うと商店街の中の商店街として都内では真っ先に名前があがるビッグな商店街だ。安売りでも有名で、地元は勿論のこと都内や埼玉からも買い物客が集まる。
  
  駅を中心にアーケードのない「遊全大山」という商店街もあったりして、一度ぐらい行っただけでは街全体がどうなっているのか全く分からない。地図で確認すると、環状7号線、中山道、山手通り、川越海道の4本の幹線通りに囲まれ、その真中にあるのが大山。中山道には江戸4宿の一つ板橋宿があり、町としての歴史も古いようだ。

街は早くもお正月

2012年 12月28日 05:18 (金)

      街あ
                    いきなり出会った初詣の看板      
      街い
                       日比谷高校の校舎
      街う
                        どうも奥は料亭らしい   
      街え
                     レトロな日比谷高校の塀
      街お
                    霞が関で始まったビルの新築現場
  
  例によって昼休みの徘徊で日枝神社辺りを歩いていたら、いきなり初詣の看板が表れ、正月が目前に来ていることに気がついた。外堀通りから1本神社側に入った道で、神社の下をぐるっと回っていて走っているのはほとんどタクシーだ。以前から気にはなっていたが一度も足跡を残したことがなかったので、思い切ってチャレンジしてみた。
  途中から右側に巻き込むような急な上り坂となる。坂に沿うように都立日比谷高校のピンクっぽい校舎が目に入ってくる。この学校の敷地はタバコ王と言われた村井吉兵衛の邸宅だった山王荘の跡地で、その面影が正門と塀に残されている。校舎の反対側には現在は学校の記念館となっている山王荘の美術品倉庫も現存している。
  正門の前にあるのがどうも料亭の入り口らしい。屋根に苔が生えた門が京都を偲ばせる。軒先には早くも注連飾りが下げられ「もういくつ寝なくても」お正月だ。時間があったので霞が関まで足を延ばす。するとたぶんどこかの省庁だと思われる大きなビルの建設が始まっていて、親方日の丸は今日も元気だ。 

荏原町でも雨男を証明-荏原町から馬込まで③

2012年 12月27日 06:02 (木)

      原こ

      原さ

      原し

      原す
  新まごめ橋からUターンして荏原町方向に戻ることにした。同じ道を引き返すことはできるだけ避けてきたが、一度通った道も逆方向から見ると新たな発見があって捨てたものではない。左方向の斜面が広く開け何かが望めそうだが、次の機会に譲ることにした。
  
  荏原町に出る1本手前の左折し、旗ノ台に向かう。大井町線と池上線が立体交差する駅で、ここも商店街が続く。細い道が複雑に交錯しほとんど迷宮状態だ。それだけに徘徊欲がますます湧いてくる。どこかのついでに-ではなく、時間に余裕のあるとき迷子になりながら存分に探索してみようと思っている。

荏原町でも晴れ男を証明-荏原町から馬込まで②

2012年 12月26日 06:16 (水)

      原か

      原き
      
      原く

      原け
  
  荏原町から歩行を続け馬込に至ると、下の環状7号線を跨ぐ新まごめ橋という陸橋に達する。陸橋のすぐ手前には古色蒼然としたモルタルの建物が目につく。いつ頃できたものか分からないが、モルタル特有の薄茶色の壁と赤いペンキで塗られた雨戸が強烈なコントラストでとても印象的だ。
  
   陸橋からは左右が広く見渡せて気持ちいい。道はまだまだ続き、道なりに進めば東海道新幹線にぶつかり、さらに進むと東海道線に出会うこととなる。夕刻が迫ったきたので、来た道を戻ることにした。
(続く)

荏原町でも晴れ男を証明-荏原町から馬込まで①

2012年 12月25日 06:21 (火)

      原あ

      原い

      原う

      原え

  雨男、雨女がいて、晴れ男、晴れ女がいる。当然というか当たり前というか、断然晴れ男である。これだけは胸を張って言い切れる。30年ほど前、頻繁に山登りをしていた頃、晴天とはいかないまでもほとんど雨に降られたことはなかった。ひと月に35日雨があるという屋久島。宮之浦岳への山行の時も、前日までの豪雨がスタート時には快晴となって、山頂から海が望めたほどだ。
  東急大井町線・荏原町からの徘徊でも小雨がしとしと。傘をさしての撮影は嫌だなと思いつつ歩行を続けているうち、いつしか雨も上がってしまいここでも晴れ男であることが証明された。
  東急線沿線は大きな商店街が多く、それが複雑に繋がり合っていまだに全貌が見えてこない。荏原町もそうした商店街の一つ。看板建築も数件見受けられる。馬込までは15分ほどで到達し、傘はバッグの中へ。
(続く)

陽の目を見るマッカーサー道路

2012年 12月24日 06:26 (月)

      まあ

      まい
      
      まう
      
      まえ
  このブログの記念すべき初記事は「都心のノッポビルの紹介」だった。あれから4カ月が経過し、外部の工事は最終段階を迎え、最上階の52階(247㍍)まで達したようだ。このビルが「俗にマッサー道路」と言われる環状2号線の要になることが分かってきた。環状2号線は神田佐久間町から水道橋、四谷、赤坂見附を経て虎ノ門、新橋に至る道路として戦後すぐに計画され、佐久間町から虎ノ門までは外堀通りとして完成している。虎ノ門・新橋間は土地買収が困難を極めたため着工できずにいたが数年前に土地の取得がほぼ終わり、残り部分の工事が始まってそろそろ新道路の全貌が見えてきた。
  
  ノッポビルは虎ノ門・新橋間の丁度中間地点にそびえ立つ。面白いのはこのビルの下を2号線が走る点だ。虎ノ門からの道路は地上と地下の二重構造となっていて、本線は地下に潜ってビルの下をくぐり新橋の国道1号線の手前で地上に顔を出す。地上部分の道路はショッピング街が計画されていて、全体が完成するとこのあたりは様相が一変することになる。
  
  2号線がマッカーサー道路がと言われるのは、進駐軍のマッカーサー元帥が米国大使館のある虎ノ門から芝浦埠頭まで道幅100㍍の軍用道路の建設を命令したとの不確かな説による。

西郷どんと勝海舟

2012年 12月23日 07:06 (日)

    西あ
    
    西い

  JR田町駅の近くでこんな石碑に出会った。時あたかも官軍が江戸に攻め上がり、まさに総攻撃を開始しようとしていた矢先、ここにあった薩摩藩蔵屋敷で西郷隆盛と勝海舟が会見し、江戸市民を戦火から守るため攻撃を回避して江戸城の無血開城に合意した史実を記念したもの。西郷は当時官軍の大総督府参謀、勝は幕府の陸軍総裁で、両者の国を想う志しが相通じたことによる。下の図は田町駅にある会見の模様を描いた壁画。
  口先だけで「国民の生活が第一」なんて嘘八百を並べる政治家が跋扈する昨今からみると、何とも清々しい話しではないか。

展望抜群の尾根道歩き-赤坂・薬研坂まで

2012年 12月22日 01:51 (土)

      三か
                      左側に表れた赤茶色のマンション
      三き
                        右斜面から赤坂方面を望む
      三く
                      このあたりからもプルデンシャルタワーが目に入る
      三け
                         開発からはずれた民家
      薬
                下って登る薬研坂(前方玉川通りの向こうの緑は赤坂御用地)
        薬研
               坂の名の由来となった「薬研」
   パークビルジングを過ぎ、左に赤茶色のマンションを見ながら進む。専福寺、道教寺の立派な本堂が斜面に並ぶ。右側にアカサカガーデンシティのとてつもなく高いビルが表れる。このビルは隣りのパークコートアカサカと渡り廊下でつながっている。周囲には植栽が整備された小さい公園風の空間があり、ここから赤坂方面の展望が一挙に開ける。真下には開発の手が付かなかった民家が数軒並ぶ。
  それにしてもこの辺はすっかり変わってしまい、昔を偲ぶようなものは何も残っていない。だが高台のためか日差しが大変明るく、散歩をしていても気持ちののいい街並みになっている。三分坂の頂点から平坦な道が続いていたが、ここからいったん下って登り返した地点までが薬研坂で、玉川通りにぶつかる。この下って登る坂の構造が漢方薬で薬草を砕く時に使う「薬研」に似ていることが坂の名の由来とか。


          
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